【10月29日追加】
本日『The Beautiful Ones』が米国で発売されましたね。
Kindle版はすでにダウンロードできます。「なか見」機能でダン・ピーベンプリング氏の前書きを一部読みましたが、先月ニューヨーカー誌に掲載された記事は”抜粋文”だったようで、論理が飛躍していたり、背景説明がないため辻褄が合わず??な箇所がいくつかありましたが、回想録では詳細に記述されています。和訳を一部修正しました。誤訳失礼致しました。

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プリンスの回想録『The Beautiful Ones』が10月29日に米国で出版されます。
 *アマゾンで予約受付中。Kinde版もあり。

 Billboard Japanの記事
 amassの記事

 
先月、回想録の共同執筆者ダン・ピーペンブリング氏が米ニューヨーカー誌に寄稿し、反響の大きかった記事をご紹介します。長かった...💦  出版される回想録では前書きを担当したとの事。

「The Book of Prince ー Prince had grand plans for his autobiography, but only a few months to live.」
by Dan Piepenbring 〜 The New Yorker, September 2, 2019 (September 9,Issue)

https://www.newyorker.com/magazine/2019/09/09/the-book-of-prince

*ニューヨーカー誌はリベラルのインテリ層が読む権威ある雑誌で、過去にはトルーマン・カポーティーやJ.D.サリンジャーの短編小説も掲載されました。

プリンスの本
プリンスは回想録に壮大な計画を持っていたが、それから数ヵ月しか生きなかった
〜 ダン・ピーペンブリング


2016年1月29日にプリンスは自宅であるペイズリーパークに私を呼び、自分が書きたいと思っている本について話してくれた。 コラボレーターを探していたのだ。 ペイズリーパークはミネソタ州ミネアポリスから南西へ40分程行った町、チャンハッセンにある。プリンスはプライバシーを守ることをとても大事にしていた。 かつてオプラ・ウィンフリーとのインタビューで、ミネソタは「とても寒いから、悪人たちを閉め出す」と語っていたが、案の定私がこの地へ降り立ったとき、地面には何層もの雪が固まっており、辺りにほとんど人はいなかった。

プリンスの運転手であるキム・プラットが黒いキャデラック・エスカレードで空港まで迎えに来てくれた。 彼女は指にリングポップほどの大きさのプラスチック・ダイヤモンドをつけていた。「時にはフェムっぽくする必要があるのよ」彼女は言った。 私はペイズリーパークの事実上の分局として機能しているチャンハッセンにあるいたって普通のチェーンホテル、カントリー・イン&スイーツで降ろされ、追って連絡があるまで待機状態だった。 プリンスのあるチームメンバーが言うには、プリンスは長年に渡りそのホテルを4回以上買える程部屋代を払ってきたそうだ。

エージェントは私をこの任務に推したが、29歳の私がこの仕事を得る可能性はかなり低いだろうとはっきりと言った。私はホテルの部屋でテレビをつけたり消したりした。ミントティーを飲んだ。プリンスに待たされてきた人々、同じホテルの正にこの部屋で、今の私のように静かに震え上がりながら座っていた人々の長く厳かな列に参列しているような気分だった。

数週間前、プリンスはペイズリーパークに出版社3社の編集者達を迎え入れ、彼の最も赤裸々で痛々しい楽曲群の1つである『The Beautiful Ones』を題名にした回想録を書くつもりだと宣言した。ある編集者が曲を書くことについて質問した時、プリンスは覚え得る限り常に自分自身を想像し、また再想像する(注:新しく造り直す)ために曲を書いてきた、と編集者達を前に語った。 アーティストであるということは絶え間なく進化することを意味しており、彼は早い段階からこの過程に備わっている神秘を理解していた。「 “神秘(Mystery)” はなぜ回想録を書くか理由を表す言葉だよ」彼は言った。「目的があるんだ」適切な本は例え様々なことをさらけ出すことになるとしても、彼の神秘性に新しいレイヤー(層)を加え得る。彼は回想録を書くにあたり、1つだけ正式な指針を設けた。それは、今までで最高の音楽の本にするということだった。

*補足(出版された回想録の前書きより):プリンスはほとんど予言行為として自身のペルソナ(人格)を作ってきた。つまり、自分が想像し、心に思い描く人物になることができたのだ。彼の全人生は思い描き、創造し、その人物になる行為だった(補足:端的に言うと「なりたい自分になる」ということでしょうか)。今日では、ペルソナを持つことは程度の差こそあれ、スーパースターになるのに必要不可欠な要素である。プリンスにとって、自身のアイデンティティーと”アーティスト”は切り離せないものであり、早い段階で、この(アーティストになることの)過程に備わっている神秘に気づき、神秘性を保つことや、さらに言うならベールに包まれることの絶大な効果を理解していた。

1月19日にプリンスはペンギン・ランダムハウス傘下の出版社であるSpiegel&Grauの編集者クリス・ジャクソンを回想録の編集者に選び、共同執筆者を探し始めた。数日後プリンスはペイズリーパークのサウンドステージ(注:コンサートホール)で、バンドを帯同しない初めてのショー「ピアノ&ア・マイクロフォン」を披露した。曲を本当に必要な要素までそぎ落とし、その場で再構築した。それ以前に、かつて彼がガーディアン紙のアレクシス・ペトリディスに語った「超越(transcendence)」のようなものが見つかるまでそこに座り、ピアノで暗闇を満たしながら、何時間も通して一人で練習してきたのだろう。1年後に見たコンサート映像では、最も初期の頃の音楽にまつわる思い出をオーディエンスと分かち合っていた。母親、マティー・デラ・ショー・ベイカーはジャズシンガーであり、プリンス・ロジャースという名前の由来である父親ジョン・ルイス・ネルソンはミュージシャンでありソングライターでもあった。「父のように弾くことなんてできないだろうって思ってた。あらゆる機会にそう思わされたものさ」プリンスは言った。「でも僕たちは仲が良かった。父は僕の親友だったんだ」

後に私はプリンスのある側近から、プリンスはファンがツイートしたりブログに投稿したりしたショーのレビューを読む習慣があったと聞かされた。プリンスにとって彼らはコラボレーターの仕事にふさわしいと感じる人々であったが、出版社が思い浮かべる知名度の高い候補者ではなかった。プリンスは彼らに執筆を促し、プリンスもまた彼らから刺激を受けていたのかもしれない。彼は即興(インプロビゼーション)のパートナー、口を割って話せる人、曲やアルバムを作るように自分の物語を組み立てるのを手助けしてくれる人を求めていた。もちろん出版社は実績のない人物を雇うことに気が進まなかっただろう。妥協の精神から、プリンスはクリス・ジャクソンと文芸社であるI.C.M.が渡した候補者リストから2名を受け入れ、そのうち一人は私だった。もう一人のライターと私は本の出版経験がない唯一の候補者だった。プリンスのチームは我々に課題を送ってきて、プリンスの音楽との自分の関わりについて、そしてなぜ自分がこの仕事に相応しいのかについて、プリンスに自己紹介文を提出するように指示した。私はその日の夜8時半に提出した。プリンス陣営から翌朝2時23分に返事があり、1日も経たないうちにミネアポリス行きの飛行機に乗っていた。

午後6時頃キム・プラットがテキストを送ってきて、ホテルへ迎えに行くと連絡をよこした。ペイズリーパークの皆が呼ぶように、P は私に会う用意ができたのだ。太陽が沈み、ペイズリーパーク ー オフィスパークのような白いアルミニウムでパネル貼りされた、3つのレコーディングスタジオを備えた広大な複合施設 ー はパープルの燭台に照らされていた。「彼はとてもスイートな人よ。今にわかるわ」プラットは言った。「実際には、今会うみたいね。あれが彼よ」プリンスは正面玄関に一人立っていた。

「ダン、はじめまして」私が近づくと彼は言った。「プリンスです」彼の声は穏やかで、思ったよりも低かった。

玄関ホールの明かりは薄暗く、沈黙を破るのものは2階の檻にいる鳩の鳴き声のみだった。部屋の角には香りのするキャンドルが揺らめいていた。プリンスは黄褐色のゆったりした毛織り物のトップスとそれに合わせたパンツ、グリーンのベスト、二重のビーズ・ネックレスを身につけており、アフロヘアはオリーブグリーンのニット帽の下に隠れていた。スニーカーは光るルーサイトのソールがついた白いプラットフォームで、階段を上がり、小さな空中廊下を通って会議室に行く時赤く光っていた。

「お腹空いてる?」彼は尋ねた。
「いえ、大丈夫です」朝から何も食べていなかったがそう答えた。
「残念だな」プリンスは言った。「僕はお腹ペコペコなんだけど」

会議室にある長いガラスのテーブルには、彼のトレードマークである記号(注:シンボル)が刻み込まれており、奥にはハート型に施された小さなソファ2つとその横にシダが置いてあった。 吹き抜けのアーチ型の天井にはパープルの星雲がピアノの鍵盤に縁取られている絵が描かれていた。 プリンスはテーブルの上座に行き「ここに座って」と言い、自分の隣の椅子に座るよう身振りで示した。 自分の周りの空間を仕切ることに慣れているようだった。

プリンスはを自己紹介文を持ってきたか尋ねた。一緒に見直したかったのだ。持ってこなかったが、Eメールで読むことができると私は言った。すでにお手上げ状態ではないかと恐々としながら、ポケットで携帯を探し、咳払いして読み始めた。「プリンスの曲を聴くと、法を破っているような気分になる」

「じゃあ、ここでストップさせてもらうよ」プリンスは言った。「なぜ君はこう書いたの?」自分の作品について何もわかっていないと言うためだけに、私をニューヨークから飛ばせたのではないかと思った。「僕が作る音楽は法を破るものではないよ、僕にとってはね」彼は言った。「僕は調和して書いている。僕はいつも調和して生きてきたんだよ。これみたいに」身振りで示した。「キャンドル」 そして悪魔の音程であるトリトン(注:三全音)ー 陰気で恐ろしい不協和音を作り出す音の組み合わせ ー を聴いたことがあるか私に聞いた。それをレッド・ツェッペリンの曲に関連付けた。彼らの憂いがあり、激しいロック音楽は、調和のルールを破るものだった。ロバート・プラントの鋭い声 ー それはプリンスやプリンスの友人達が作る音楽ではなく、彼が子供の頃に聴いた時は正に法を破るような音楽だった。

私は彼のスフィンクスのような容貌の背後に懐疑的な空気を感じ取った。 私はできるだけ多く彼とアイコンタクトをとることにより、神経を落ち着かせようとした。 彼の顔には皺がなく、肌は輝いていたが、目にはほんの一瞬生気のない虚ろさを感じ取れた。 私達は言葉の使い方について話した。「ある種の言葉は僕を正確に言い表したものではないな」彼は言った。 白人の批評家は彼が何者であるかの認識不足から言葉を不注意に使いがちであり、「錬金術(Archemy)」という言葉はその一つだった。ライター達がプリンスの音楽に錬金術の資質を見出したとき、言葉本来の意味、つまり卑金属を金に精錬する黒魔術ということを無視していた。プリンスは決してそんなことはしなかった。彼は「魔法の(magical)」という言葉に特に拒否反応を示した。私自身は自己紹介文に魔法のあるバージョンを書いていたが、「ファンクは魔法(magic)の対極にあるものだよ。」と彼は言った。「ファンクではルールが大事なんだ。」

安心したことに、私の自己紹介文の多くは一行目よりは幾分彼にとってしっくりいくものだったようだ。ノース・ミネアポリスでの彼の起源や、ドラムマシン使用のパイオニアだったことや、彼の影響力の輪についてなど、私が書いた「いくつか」については気に入ったと彼は言い、会話は少し打ち解けたもになった。彼は音楽を作ることやレコードを作ることをやり終えたと言った。「もうギターを弾くのはうんざりだよ。少なくとも今のところはね。ピアノは好きだけど、ギターを手にとるのは考えるのも嫌だよ。」彼がやりたいことは書くことだった。実際、彼は自身の最初の本を出すことについて非常に多くのアイデアがありすぎて、どこから書き始めていいかわからないほどだった。おそらく、現在と過去を並列に並べながら、幼少期に焦点を当てたかったのだろう。あるいは音楽業界の内部構造について丸一冊書きたかったのかもしれない。あるいはおそらく母親について書きたかった ー 自分の人生において母親の役割を明確にしたいと思っていたのかもしれない。彼は本を書くこととアルバムを作ることについて、共通点を知りたかった。ルールを知りたかったのだ。そうすればルールをいつどこで破ればいいかわかるから。

この本は皆を驚かせるものでなくてはならないだろう。皆を刺激し、やる気を起こさせる。ある種の文化資本になるだろう。「友達から友達へ回し読みされるような本がいいな。たとえば、君『ウェイキング・ライフ』を知ってる?」2001年に公開されたリチャード・リンクレイター監督の超現実的な映画に触れた。知っていると私は答えた。「友達全員に見せるんじゃなくて、気の合う友達だけに見せるような本」マイルス・デイヴィスの自伝やジョン・ハワード・グリフィンの『Black Like Me』のような本が目安になると彼は考えた。

この本を執筆することにより、彼は自身の人生の物語をより理解できるようになるだろう。以前テレビ番組で元従業員女性が、自分がヴォルトにある未発表曲を保管し守ることは神から与えられた務めだと思った、と語っているのを見たと彼は言った。 「さて、警察を呼ぶべきかな。人種差別じゃないってどうして言える?」人はいつも彼や黒人アーティストに対し、まるで自分自身を管理できないと言わんばかりに、自分では何もできない無力な役割を当てがってきた。「僕はまだ自分で歯磨きしないとね」彼は言った。

私の携帯電話がまだ会議室のテーブルの上にあるのに気づき、彼は一瞬動揺したようだった。「あれ動いてないよね?」

「はい」私は言った。実際動いていなかった。彼は録音するなとはっきり言うことは決してなかったが、私はメモを取ることすらしなかった(ホテルの部屋に戻るとすぐに、できる限り会話をたどったが。彼の発言を一語一句とらえたと確信が持てる時だけ感嘆符を付けた)。

1993年にプリンスと長年のレコード・レーベルであるワーナーブラザーズとの関係が公に破綻した。当時の彼の契約は、レーベルにさらに6枚のアルバムを作る約束をして、対価として1億ドル受け取るものだった。しかしその契約内容は1年にアルバムを1枚しかリリースできないように制限するものであり、レーベルがマスターを所有するというものだった。契約が反故になることを望んで、プリンスは自分の名前を発音できないシンボルに変え、顔に「slave(奴隷)と書いて公の場に現れた。後にマネージャーであるフェイドラ・エリス=ラムキンスの助けを借りて、2014年に彼はマスター録音の管理権を手にすることになるのだが。全てのアーティスト、特に黒人アーティストはマスターを所有するべきだ、と彼は私に言った。所有権こそが人種差別と戦う方法だと考えていたのだ。黒人のコミュニティーは、ミュージシャンのマスター録音と知的財産を守ることによって富を取り戻すだろう。そしてその富を守り、自分達の警察を雇い、自分達の学校を設立し、自分達のやり方で契約を結ぶだろう。

彼は音楽業界は最初から黒人音楽をサイロ化(隔離)していたことを私に思い出させた。 音楽業界は黒人アーティストを「黒人基地」に向けてプロモーションした。そして黒人基地で売れた時だけ、アーティスト達はジャンルを越境した。ビルボードはこの区分を測定し、定量化するために今日まで続く全く不要なチャートを開発した(注:当時はBlackチャート → 現在はR&B/Hip Hopチャートなど)「なぜワーナーブラザーズは僕がレーベルの社長になれると思わなかったのかな?」彼は尋ねた。「大手レコード会社の重役達に会議で言いたいよ。「オッケー、あなたは人種差別主義者だ」ってね。君にそう言ったらどう思う?」彼は燃えるような激しい目で私を見た。「人種差別を解決する本を書けるかな?」彼は尋ねた。 私が答える前に別の質問をした。「人種差別とはどういう意味だと思う?」

私は数秒間慌てて喋った後に、辞書の定義文のようなことを言ったが、プリンスはわずかに頷いたのみだった。彼はミネアポリスで経験した人種差別の初期の頃の思い出を振り返っていた。当時彼の親友はユダヤ人だった。「君によく似てたよ」と彼は言った。ある日誰かがその男の子に石を投げた。ノース・ミネアポリスは黒人のコミュニティであったため、プリンスは1967年に4年生になり、近所の子供達と白人が大多数を占める小学校にバスで通うようになってから、初めて直に人種差別を経験した。振り返ってみると、当時のミネソタは分離差別主義のアラバマほど啓蒙されていなかったと彼は感じていた。1992年の自身の曲『The Sacrifice of Victor』ではバス通学の様子を痛烈に歌っている。

「僕がいるのを好ましく思わない金持ちの子供達と学校に通ったんだ。」彼は言った。一人が彼をNワード(注:ニガー)で呼んだとき、プリンスはパンチを見舞ってやった。「やらなくちゃと感じたんだ。ラッキーなことに、そいつは泣いて逃げていったけどね。でも、戦いはどこで終わるんだろう?どこで終わるべきなんだろう?いつ戦うべきかってどうやったらわかるんだろう?」

人種差別が油断のならない様相を呈するにつれ、この質問はより複雑になっていったと彼は言った。 「つまり「すべての命が大切だ(All lives matter)」は皮肉だってことさ」当時ある程度の牽引力のあった極右のスローガンに触れて彼は言った。

少しして、「正直言って、君にこの本が書けるとは思わないな」と言った。私が人種差別についてもっと知る必要があると思ったのだ。彼はヒップホップについて話し、ヒップホップとは言葉を変換するための手段だと言った。白人の言語(「君の言語」)を白人が理解できないものに変えるのだと。マイルス・デイビスは思考には二種類あると信じていたと彼は言った。それは真実と白人のたわごとだと。

それでも、少し後で、音楽業界がアーティストを支配する様々な形態について議論していたとき、私は彼を刺激するようなことを言ったらしい。 音楽ビジネスが書籍の出版をモデルにしていることを考えると、本を出版することについて彼の興味は何なのだろうと思った。 契約、前払い金、ロイヤリティ、収入分割、著作権... 彼がレコード・レーベルで忌み嫌った知的財産へのアプローチは出版業界に起源があったのだ。 彼の顔が輝いた。「自分が原稿をタイプしている姿が見えるよ」キーボードでタイプする仕草をして彼は言った。「君達はなぜ僕が本を出版するのか不思議に思っているだろうね...」

彼が会話を中断するまで、私達は1時間以上も話し続けていた。「今何時かわかる?」彼は尋ねた。 その夜、シンガーのジュディス・ヒルがサウンドステージで演奏していた。 彼は一瞬姿を消して運転手に電話をかけた。私をホテルまで送ってもらおうとしたが、どうやら彼女は手がふさがっていたようだ。

「大丈夫だよ」彼は戻ってきて言った。「僕が送るよ」

彼の後について会議室からエレベーターへ向かった。彼は弾むように歩きながら、一番下の階のボタンを押した。「業界の話には興奮したよ」彼は言った。「でも、まだ母について書こうかと考えているんだ」

エレベーターは薄暗い地下室で開き、プリンスは黒のリンカーンMKTに向かって元気よく歩きながら、私をガレージに連れて行った。 助手席に座ると、カップホルダーに20ドル札が沢山あるのに気がついた。プリンスはガレージのドアを作動させ、ペイズリーパークの敷地正面に出たが、到着した時より目に見えて人で溢れていた。「皆が集まってきたようだな」プリンスは興奮した様子で言った。

彼は姿勢をまっすぐにしてペイズリーパークの複合施設から外へ出ながら、さらにスピードを上げ、本の流通チェーンについて議論を再開した。誰が知的財産を管理するのか、誰がその管理についてお金を工面するのか。「エステルに言うんだ( I.C.M.の彼のエージェントであるエスター・ニューバーグ )」 「そしてランダムハウスにもね。僕が自分の本を所有したがってるって」彼は言った。「君と僕が共同所有し、全ての流通チャンネルに持っていくんだ」彼は加えた。「君のスタイルが気に入った。ただ単語を見て、僕が使うべきかどうか確認してよ。だって「魔法(magic)」は僕が使う言葉じゃない。「魔法」はマイケル(・ジャクソン)の言葉だよ。彼の音楽を表す言葉だから」

彼はカントリー・インの入り口で車のギアをパーキングに入れた。「僕はレースを見たことがないんだ、ある意味ね。いつも人には感じ良くしようとしてきたから」彼は言った。同じようにオープンマインドを持つ同年代の白人がほとんどいないと思っていたようだ。彼らはプリンスがオープンマインドを持つことについて敬意を示していたにもかかわらず。この本を売り、プロモーションする時期が来たら、プリンスは自分のビジネス手法を受け入れる人々とだけ取引きをしたかった。「走ることを学ぶ前に、まず歩くことを学ばなくてはならない、と言う輩が沢山いる」彼は言った。「これは正に奴隷トークだよ。 奴隷達が言うようなことさ」彼は私としっかり握手し、ホテルの自動ドアのところで去った。

翌日の午後4時頃、私が昼食からカントリーインへ戻っていると、プリンスがリンカーンMKTのハンドルを握り、運転席の窓にアフロヘアを大きく写らせながら、ホテルの敷地から出て、銀行の前の信号機で雪の吹きだまりにアイドリングしているのが見えた。 なぜか野放し状態の彼を目撃することは、一緒に車に乗るよりもさらに奇妙な感じがした。 何をしていたんだ? 他のライターと面談していたのか? 用事でもあったのか?

部屋に戻ると、プリンスの側近の一人がプリンスからのリンクをメールしてきた。リンクはFacebookのショートビデオで、1940年代に行われた有名な人形テストの実験の様子を映しており、黒人の子供たちが白人の人形を善良さ、優しさ、美しさと結び付けているのとは逆に、黒人の人形を悪さ、残酷さ、醜さと結び付けているものだった。

プリンスのアシスタントであるメロン・ベクレがテキストメッセージを送ってきた時、私はチャンハッセンで土曜の夜を一人で過ごすことに折り合いをつけているところだった。ペイズリーパークで従業員のためにダンスパーティーが開かれ、その後映画上映があるので、彼女が私を迎えに来るという内容だった。サウンドステージに隣接する天井の高い部屋で、DJ Kissことジャキサ・テイラー・センプルがソファとキャンドルに囲まれた台座でレコードを回していた。プリンスの側近とバンド仲間6人はビーガン・デザートのトレイの横で音楽に体を揺らしていた。壁にはブリンスのアルバム『Rainbow Children』時代の黒人ジャズ・ミュージシャンの壁画が飾られており、天井からはプリンスの記号(注:シンボル)の大きな銀色のレンダリングが吊り下げられていた。しばらくしてベクレは立ち去り、コートの束を持って戻ってきた。プリンスは近くにあるチャンハッセン・シネマで閉店後定期的にプライベート上映を行い、私達は『カンフー・パンダ3』を観ることになっていた。2台の車で映画館に向かい、空の駐車場ではドアを開けるために係員が一人待っていた。プリンスは映画が始まった直後に到着し、後列に滑り込んだ。

「ポップコーンはある?」彼はベクレに尋ねて、彼女は取りに行った。私達はアニメのパンダが飲茶を食べ、悪者をSpirit Realm (精神の国)に追いやったのを観た。プリンスが数回笑うのが聞こえた。エンドクレジットが流れると彼は無言で立ち上がり、スキップしながら階段を降り、映画館から出て、スニーカーは暗闇の中で赤色レーザーに光っていた。

プリンスの仲間の多くは、決して公式に雇われたわけではないという同じようなエピソードを持っていた。プリンスはただ彼らにまた来るように言い、彼らはそうしたのだ。私がミネアポリスから戻って1週間後、フェイドラ・エリス=ラムキンスはI.C.M.のプリンスのエージェントに手紙を書いた。プリンスはオーストラリアで「ピアノ&ア・マイクロフォン」ツアーを始めようとしていた。シドニー・モーニング・ヘラルド紙に語ったところによると、ショーは「毎晩 僕が新しい銀河を産みだすのを見るようなもの」らしい。 彼は私にメルボルンで始まる最初のショーに参加して欲しがっていた。

私は最初のショーがある2月16日火曜日にステート・シアターに到着した。 ボディーガードのカーク・ジョンソンは、クラウン・タワーズ・ホテルで私の隣の部屋に滞在していた。 ジョンソンは私にピーター・ブレイブストロング ー プリンス好みの旅の偽名 ー から電話がかかってくるだろうと言った。私はその名前がいかにもという感じで、ほとんど挑戦的なところ、偽名っぽい響きが気に入った。 コミック本ばりのけばけばしさはプリンスの過去のアルターエゴであるジェイミー・スター、アレクサンダー・ネバーマインド、ジョーイ・ココともしっくりきていた。 12時30分頃ベッドサイドテーブルの電話が鳴った。 ピーター・ブレイブストロングから電話がかかってきたのだ。 プリンスは意気消沈した様子で、悲しい知らせを受けたところだと言った。 私は彼をその状態から救うことはできなかった。「今夜のショーの準備をするんだ。明日は会えるかな?」彼は少しだけ明るくなった。「君に見せたいものが沢山あるんだ」

「プリンス」とGoogleで検索してみた。ニュースサイトには、ヴァニティとして有名なデニス・マシューズが57歳 ー プリンスと同じ歳 ー で死亡したと報じていた。 80年代前半にプリンスとマシューズは恋に落ち、プリンスは彼女をグループ、Vanity 6のフロントに指名した。彼女は1984年の映画『パープル・レイン』に出演する予定だったが、彼らの関係が終わったため、 代わりにアポロニア・コテロがその役を演じた。

ステージ・セットにはすで降霊術の会(注:死者の魂と交信しようとする人たちの会合)のような気配があった。ピアノの周りに長い層のキャンドルが燃え、ビロードのようなもやの中天井からは明かりが注いでおり、ステージの後ろのスクリーンには幾何学模様の映像が流れていた。 プリンスがステージに出てきてピアノの前に座り、歓声が薄れていくと言った。「僕達にとって親しい人が亡くなったことを、ちょっと前に知ったんだ」

コンサートには寒さに対して暖かさを求めて身を寄せ合う人々を思い出させるような、冬らしさのようなものがあった。 1984年に、プリンスは『When Doves Cry』でより削ぎ落としたフォームを好んでベースラインを削ったが、この日のパフォーマンスには、その時と同じ力が彼を動かしているように見えた。「こうやって一人で演奏するのは初めてなんだ」彼はショーの終わりに向けて言った。「みんな辛抱強く聴いてくれてありがとう。 集中しようと努めてる。今夜はちょっとしんどくてね」彼は次の曲『The Beautiful Ones』を始める前に一呼吸置いて、「彼女はこの曲を知ってるよ」と言った。

翌日私はジョンソンの後について、ピーター・ブレイブストロングのスイートルームまで行った。プリンスは寝室で身を隠していた。ジョンソンはプリンスと相談して、私にメインルームにある机を指した。 ノートパッドには30ページ位の鉛筆で書かれた草稿があり、消しゴムで消された後が沢山あり、書き換えられていた。 ジョンソンはプリンスが私に書いたものを読んでもらい、内容について話したがっていると言った。

プリンスの手書き文字は美しく流れるようで、ほとんど無意識に彼から溢れ出たことを示唆していた。 また、ほとんど判読できなかった。 手書きでさえ署名のような書体で、80年代に彼が完成させた特異で先駆けとなった略語「I」「Eye」「you」「U」「are」「R」で書かれていた。 文章は温かく、愉快で、よく観察され、雄弁で、驚くほど焦点が合っていた。『ドロシー・パーカーのバラッド』『ラズベリーベレー』など彼の物語性のある歌を連想させるような、物語を話すモードで書かれており、さながら プリンス・ザ・談話家(話し上手な人)といった感じだった。

文章は彼の最初の思い出である母親がウィンクした時のことから始まり、ミネアポリスで過ごした幼少期と青年期について書かれていた。誰かの目の表情を見て笑っている、とどうやったらわかるのか知ってるかい?」と彼は書いた。「答えは僕の母の目さ。時々、母は秘密を話すかのように目を細めたものだ。やがて彼女がたくさんの秘密を持っていることがわかるのだが」彼はお気に入りの父のシャツや両親が互いに服装について張り合っていたことについて回想した。それから近所の女の子と家で遊んでいる時にファーストキスをしたことを思い起こしていた。子供の頃にかかっていたてんかんについて書いていた。

プリンスは2001年頃にエホバの証人の信者になり、最も際どいヒット曲を演奏するのをやめた。自分のセクシャルな部分について書くのを嫌がるのではないかと危惧したが、これらのページでは、彼が初めて女の子と接点を持った時のことを思い出していた。例えば初めて観たR指定映画のことや「ジョン・ヒューズ監督の青春映画のように」彼のロッカーをバタンと閉め、彼の頭の上にあるヤドリギを取り、キスしたガールフレンドのことなど。これらの思い出は、音楽に関する彼の哲学にちりばめられていた。良いバラードというのは、常にメイクラブしたい気分にさせるものだ」

両親が肉体的に喧嘩し、7歳の時に別れたことも書いていた。1967年か1968年に母親が再婚した後プリンスが父親の家に移り住むことになった日は、人生で最も幸せな日だったと(補足:母親の再婚相手と折り合いが悪かったため)。ある日の日曜礼拝の後、1970年のドキュメンタリー『ウッドストック』を見に行きたいと父親を説得したことをこう回想している。

車のそばに立ち、期待に胸を膨らませ、父を今か今かと待っていたのを覚えている。この経験を振り返ると、ステージに立つときは毎回できる限りベストを尽くさなくちゃいけないと思わされるんだ。なぜなら、僕のステージを初めて観る人もいるわけだから。アーティストはただ一度のパフォーマンスで人の人生を変える力がある。父と僕はその夜『ウッドストック』を観て人生が変わった。まさにその夜僕らを結び付けた絆により、僕の情熱に対して常に味方になってくれる人がいることがわかったんだ。父はその夜、僕にとって音楽がどんな意味があるのかを真に理解した。その瞬間から、彼は決して僕を(注:大人が子供にするように)見下した態度で話すことはなくなった。

 ※ プリンス語で(略語を使って)書いています

読み終えた後、ジョンソンは私を私の部屋に連れて行き、ピーター・ブレイブストロングに電話するように言った。

「それで、どう思う?」プリンスは電話に出て尋ねた。正直に言って、あなたの書いたものは素晴らしい、と彼に言った。 私達は、私が混乱したいくつかの箇所や、より詳細を知りたいと思った箇所について話した。「本にすごく興奮してる自分を感じるよ」彼は言った。 私達は電話を切った。 電話でプリンスと話すために飛行機で23時間も過ごしたのか?

幸いなことに、その夜のショーの後、彼はパープルの明かりに包まれ、フェイク・クリスタルのシャンデリアで飾られたウォーターフロントのラウンジで開かれるアフターパーティーに誘ってくれた。彼は後ろの入り口から気取って歩いていった ー 王室の側面を強調するステッキを持っていた ー そしてベルベットのロープを越えてVIPエリアに私を招いた。私達は豪華なソファに座り、前にはチョコレートで覆われたイチゴが大理石のトレイに乗っていた。

「今夜はいつもと気分が違ったよ」ショーについて尋ねたとき、プリンスは言った。 彼はこのところ幸せで、自分のことをあまり意識していないように見えた。ブートレガー達の間で出回っている1982年の未発表曲『パープル・ミュージック』を聴けて嬉しいと伝えた。「その曲をライブで演奏したのは初めてだったんだ」彼は言った。「ブートレガーがそれを録音したと誰かが言ってたよ。これリリースするかもね」

彼は前に座り、両手でステッキを握っていた。手にはシンボルマークのついた黒い革の手袋をしていた。「ランダムハウスとは話したかい?」彼は尋ねた。「今君にはパワーがある。そのパワーを行使することを学ぶんだ。 君と、僕と、彼ら。 全てを後回しにするよう(僕を優先するよう)に彼らを説得するんだ」彼は私の目を見た。「君を信じる。僕が君を信じている、と彼らに言うんだ」

彼はページに書かれた私のメモを見て、それに取り組むと言った。「速記者を手配してくれ。女性がいいな。それとも、君自身がタイプするか」

私達はキッチンを通ってクラブを出た。 アウディS.U.V.が店の駐車場で待っていた。 プリンスと私は黙って後ろに座り、私はその沈黙を破ってまで言う価値のあることは何一つないとわかった。 プリンスは窓からメルボルンのシャッターが閉まった店や無人の通りを眺めた。 「ゴールドチケットのプロモーションをするべきだよ」彼は数分後に言った。「本を他の賞品と一緒に置こう。当選者のためにコンサートをするとか。 当選者に自分の話をさせるとか」彼は自分の頭を鎮めることができず、疲れているように聞こえた。

車は特別な入り口を通ってクラウン・タワーに入り、地下のエレベーターに向けて走った。私はプリンスにこの時間のホテルの静けさが好きだと言った。 夜遅くにカーペットが敷かれた長い廊下を彷徨うのは奇妙にも魅力的だった。プリンスはニヤリと笑って「何度もそうしたよ」と言った。

金曜日にジョンソンは紙をとりに来るようにと私をピーター・ブレイブストロングのスイートルームに呼び出した。簡単な引き継ぎだと思っていたが、2時間会話することになった。プリンスは自分の顔が書かれた虹色のトップスを着ており、ページを読むために私を机に座らせた。脇には数パックのヘアネットがあった。「ここに座って」彼はペンと紙を持ってきて再び言った。「音楽は癒しだ(Music is healing.)」と彼は言った。「まずそれを書いて」これは私達の指針となるものだった。「音楽には物事をまとめる力がある(Music holds things together.)」

ペイズリーパークで話して以来、本に対する彼の野心は増幅していた。「この本は自伝の形をとった、伝記の形をとった、素晴らしい共同体のためのハンドブックになるべきだ」彼は言った。「自分が作ったものは自分のものだと教えるものになるべきだ」人々、特に若い黒人アーティストを助け、彼らが持つパワーとその作用を実現するのは私達の義務だった。

私は回想録を一種のハンドブックとして定義するアイデアが気に入った。そのアイデアは本の題名『The Beautiful Ones』にクリエイターの共同体全体を差す別の意味のレイヤー(層)をもたらし、権限を拡大するやり方だった。「自分が作ったものを保持するんだ」と、プリンスは私に何度も言った。「ミネアポリスが僕を作ったから、僕はミネアポリスに留まった。お返ししなくちゃいけないんだよ。父はルイジアナ州コットンバレーからミネアポリスに移り住み、過酷な状況で富を管理する意味を学んだんだ」

プリンスは、20世紀初頭に栄えた黒人起業家精神の源であるオクラホマ州タルサの黒人ウォール街について読者に教えたかった。 南北戦争後、解放された黒人達が活況を呈する都市に押し寄せ、土地を購入した。人種差別は彼らをグリーンウッドに押しやり、そこでは彼らの事業と創意あふれるアイデアで繁栄した共同体が形成された。 すぐに、グリーンウッドは100以上の黒人が経営する会社と、20数軒の教会、数個の学校、1つの公共図書館を有するようになった。プリンスは富を蓄えることに関する本を読むのが大好きだった。しかし、やがてタルサの1921年の民族虐殺が始まった。黒人の少年が白人の少女を強姦しようとしたという非難により扇動された何千人もの武装した白人が、グリーンウッドを灯油で覆い、ブロックごとに焼き払い、略奪したのだ。 数百人が死亡し、約1万人が家を失った。 黒人のウォール街は破壊されたのだ。

「 『水源(The Fountainhead)』」とプリンスは言った。 「あの本を読んだかい? どう思った?」私は好きではないと答えた。著者アイン・ランドが自由市場と自由な個人主義を擁護して創出した客観主義(objectivism)や現代の侍者(注:司祭を補助する役割)に我慢ならないと言った。プリンスも哲学は魅惑的だと思ったようだが、私の意見に同意した。「僕達にはファンだけでなく、支配階級に訴えかける本が必要だ。「水源」をレンガごとに解体する必要がある。支配階級の聖書みたいな本。それは様々な問題の複合体だ。 彼らは基本的に楽園を廃絶したいんだからね。」と彼は言った。「僕達は支配権(Supremacy)という概念全体を攻撃すべきだ」言葉本来の意味(至高・最高)の純粋さは損なわれていると彼は思った。「かつてはSupremes(シュープリームス)と呼ばれるバンドがあったんだよ!至高とは、すべてが繁栄し、すべてが豊かなことさ」

だが、黒人の創造性のために集団的所有権を急進的に呼びかけけることは単独ではできなかった、と彼は言った。 「僕が『パープルレイン』を所有している」と言うと、「カニエっぽく...聞こえるだろ」 彼は一瞬黙った。「友達だと思ってるけど」所有権に関する発言はしばしば尊大だと見られる、と彼は思っていた。 他人が発言する方がより説得力があった。彼はこの本で彼の言葉と私の言葉を共存させる方法を探していたのだ。「最終章に向かって、僕たちの声が混じり始めたら、それってドープだよね(注:ヤバいよね)。」彼は言った。「最初は明確に区分されているけど、最後の方は2人で書く」

彼は最近新しいパスポートの写真を撮ってもらい、それをツイートしたところ、すぐに拡散された。 もちろん彼の唇は優しく口を開け、アイライナーは完璧で、口ひげの毛は全て完璧にトリミングされ、世界の税関職員がスタンプを押す代わりにキスするように見えた。「この写真を本の表紙にしたらいいんじゃないかな。(パスポートの)僕の情報やなんかと一緒に。ヘンにしちゃおうよ」私達は二人で笑い、爽快な気分だった。「ブラザーからブラザーへ。論争になるのは(controversial)良いことだ」彼は言った。「僕たちはそうするために会ってる。削除する過程があったけど、そうするには自分がやろうとしていることと争わない性格を要するね。君は僕よりたくさんの言葉を知っている。君はこの本でピューリッツァー賞を貰うぞ、と思うように書くんだ」彼は腕を上げて、目に見えない(ピューリッツァー賞の)像を掲げて、それを机に激しく叩くふりをした。

彼は立ち上がり、私たちは彼のスイートルームのドアまで歩いた。「とても助けになったよ」彼は言った。「僕達がやるべきことについて、より明確に理解できた」彼はさよならのハグをしてくれ、突然私の鼻が彼の髪の中にあった。 私は彼の香水の匂いを感じながらその日を過ごした。メルボルンの夏で、私は耳をつんざくような音量でオハイオ・プレイヤーの『Skin Tight』を聴き、頭の中で彼が言ったことを考えながらヤラ川に沿って歩いた。「このレコードのベースとドラムは、スティーヴン・ホーキングさえ踊らせるだろう」とプリンスは見せてくれたページに書いていた。「侮辱するつもりはない。それだけファンキーだということさ」

ニューヨークでは、プリンスの本の契約は一般的なものからかけ離れていた。 ある時彼は自宅から自分の編集者であるクリス・ジャクソンに電話をかけ、契約や弁護士なしで本を出版できるかどうか尋ねた。 ジャクソンは後に当時を振り返り、「私はそうしたいが、会社は契約を結ばなければ小切手を切ることができない、と言ったんだ。プリンスは少し黙ってから「かけ直すよ」と言った。そして、契約に委細を追加して、電話をかけてきたんだ」

プリンスは将来的に、本が自分自身をもはや反映していないと感じた時点で、永久に本棚から取り払う(注:絶版にするということか)権利を持ちたかった。 問題はそのためにランダムハウス社にいくら支払う必要があるかだった。3日間または4日間提案と逆提案のやりとりをした後、金曜日に数字が決まり、プリンスは(ニューヨーク行きの)飛行機に飛び乗った。午後7時40分に「ヨー、プリンスは今ニューヨークにいるのかい?!(y is prince in new york right now?!)とツイートした。

その夜の8時までに、答えを聞くために、(ニューヨーク)チェルシーの10番街にある狭くて薄暗いクラブ、Avenueに150人が招集された。まばゆいゴールドとパープルのストライプに身を包んだプリンスは、聴衆の上の階段にあるアクリルのバリアーに寄りかかって回想録を書くことを発表した。その後プリンスは、マニア達が「サンプラーセット」と呼ぶものを演奏した。録音された伴奏に併せて、ヒット曲メドレーを生で歌ったのだ。「ランダムハウスに感謝したい」と途中で彼は言った。「このファンクについては、ランダムなことは何もないよ!」

翌日回想録のニュースがインターネット上に広まった頃、ジョンソンは真夜中にウエスト・ヴィレッジにあるナイトクラブ、Grooveで自分、ベクレ、プリンスに加わるようにと私を招待した。クラブではリナード・ジャクソンという名のベーシストが率いる Li’nard’s Many Moods が演奏していた。 プリンスのセキュリティーは、ステージに面しているがダンスフロアからは見えない、壁際にある後ろ向きの背もたれが高い長椅子を確保していた。プリンスは私を横に座らせ、耳元で手を丸めて言った。「もう支払いを受けたかい?」彼は尋ねた。

「いいえ」私は言った。

「僕もだよ」私は混乱した。契約書はまだ署名もされていなかったのだ。 しかし、金銭の問題は通常は下品なものと見なされ、またプリンスの世界では反企業的な仲間意識の雰囲気が漂っていたので、控えるべきことになっていた。アーティストには常に対価を支払われるべきであり、企業は常に対価を支払うべきだ。

マイケル・ジャクソンの『Bad』がスピーカーシステムから流れてきた。プリンスは、一度共演する話があったことを思い出すと言った。「このことは後で君に話すよ」と彼は言った。「これにはいくつか衝撃的なエピソードがあるんだ。」

プリンスのDJ、パープル・パムとして知られるパム・ワレンが我々に加わり、プリンスは彼女にいくつかアドバイスをした。まず、アース・ウィンド&ファイアーの『September』でセットを終えるのはいつだって良いアイデアだ。次に、口汚く罵るような曲はだめ。「DJ達は汚い言葉の曲をプレイしておきながら、なぜクラブで争いが起きるんだろうって不思議に思うんだ」彼は言った。「そんな時はサウンドトラックをかけて!」

しばらくして、彼はジョンソンにもう行く時間だとうなずいた。「それで、僕たちがやることは... 君一週間以内に都合つくかい? 僕が演奏してる場所ならどこでも会って、本当に作業を始めないと」彼は言った。彼はジャケットを頭にかざして、私と握手をし、手早く肩を組んだ。

一週間が経ち、さらにもう一週間が経ったが、音沙汰はなかった。 4月上旬にジョンソンは入力したページを私のメモと一緒に再送できるか尋ねた。私は再送したが、それから音沙汰はなかった。プリンスがアトランタのショーを延期した記事を読んでからは、さらに沈黙が私を不安にし始めた。 1週間後TMZは彼の飛行機が街を離陸した後に緊急着陸し、彼がイリノイ州モリーンの病院に入院したと報じた。インフルエンザの治療するためとの事だった。

プリンスは数時間以内にペイズリーパークから、自分の曲『Controvery』を聴いているとツイートした(#NowPlaying "Controversy (Single Version)" by @Prince in @TIDALHiFi : ) : ) )。歌詞の始まりは「皆の言うこと全てを信じることはできない」。 背後にある意味は、僕は大丈夫、だった。4月17日日曜日の夜、彼は私に電話をかけてきた。「僕は大丈夫だと言いたかったんだ。メディアが君に信じさせていることがどうであれね」彼は言った。「奴らは全て誇張しないと気が済まないんだよ。わかるだろう」私はずっと心配していた、インフルエンザにかかったようで気の毒だと言った。「インフルエンザのような症状があったんだ」彼は言った。「それに声がゴワゴワしてた」ひどい風邪から回復している途中のように聞こえた。

しかし、彼はこのテーマに留まりたくなかった。本について話すために電話してきたのだ。「聞きたかったんだ。君は細胞記憶というのを信じるかい?」彼は言った。私達の体は記憶を保存できて、よって経験は遺伝的なものであるという意味だった。「聖書を読んで、そのことについて考えてたんだ」彼は説明した。「父の罪。細胞が記憶していないなら、どうしてあり得るだろう?」その概念は彼自身の人生にも共鳴していた。「父には2つの家族がいた」彼は言った。「僕は2つ目の家族のほうで、父は長男の時よりも僕とうまくやりたいと思っていた。だから父は非常に規律正しかったが、母はそれが嫌だった。母は自発的で、興奮することが好きだったんだ」

両親の間の葛藤は彼の中にも住んでいた。両親の不和に、彼は自分に創造するよう促した奇妙なハーモニーを聞いた。「僕の人生のジレンマの1つは、これ(葛藤)を見てきたことだね」と彼は言った。「僕は秩序、最終形、真実が好きだ(I like order, finality, and truth. )。でも、しゃれたディナーパーティーなんかに出かけたり、DJがファンキーな曲をかけると…」

「踊っちゃうんですね」私は言った。

「そのとおり」

彼は一瞬話すのをやめた。「ファンクとは何か を定義する言葉を見つける必要があるな」彼は言った。 衝動を構造に結合させたファンク音楽は、彼が具現化してきた生きる矛盾だった。つまり、一人の中に母親と父親がいた。「僕たちが本当に作業を始めるようになったら...」という言葉について、考慮に値する何かがあった。彼はよくそんなフレーズを使った。大抵の場合は、1~2週間でスケジュールを決め作業に取り掛かることができる、と加えながら。「ただ電話して、それが僕が考えていることだって知らせたかっただけなんだ」と彼は言った。「そして僕は大丈夫だとね」

4月21日の朝遅く、テキストメッセージが届き始めたとき、私はコネチカット行きのメトロ・ノース列車に乗っていた。TMZはペイズリーパークで死者が出たと報道していた。 私はニュースサイトの画面を更新し続けたが、すぐに見出しの文字サイズが大きくなった。 プリンスが死んだ。 外では春が訪れを告げ、列車の窓からは風景が流れていくのが見えた。

翌日以降は薬物中毒だというニュースになった。まずはタブロイド紙で感嘆符が付き、その後は落ち着いた報道になった。 彼はフェンタニルが混ざっているバーコデイン偽錠剤を服用したため、過剰摂取の事故で死亡したということだった。錠剤の販売元は不明のままだ。プリンスに最も近い人物の一人は、プリンスはアトランタで最初のショーの後、「最近はもっと眠ることを楽しんでいる」と言っていた、そして多分それは彼が地上でやるべきとを全て終えたこと、目を覚ました生活は「信じられないほど退屈だ」ということを意味していた、と刑事に語った。これを読んだ時、文字がねじれているように感じた。我々二人が話したことの否定になるからだ。それから、彼が最初の「ピアノ & ア・マイクロフォン」ショーで似たようなことを言っていたのを思い出した。「今は昔より夢を見るのが好きなんだ」彼はオーディエンスに向かって言った。「友達が何人か亡くなり、夢の中で彼らと会うんだ。彼らがここにいるみたいで、時には夢を見ていても起きているように感じるんだ」

彼の最後の数ヵ月間についてさらに記事を読んだが、私が出会った陽気で、イタズラ好きで、気遣いの行き届いた人物と、ニュース記事や警察の報告書で書かれている意志が強く、人目を偲び、不透明な人物が同一人物だと思うのは困難なことだった。プリンスは常に二面性を具現化していた。ここにもう1つある。彼は大丈夫だと言ったが、大丈夫ではなかった。彼の話し方に虚偽はなく、最も暗い瞬間にも虚偽はなかった。痛みを隠していたからといって、彼に失望することなどできない。 彼は自分の流儀で生きていた。彼にもっと期待することは、魔法を期待することだった。

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プリンスは回想録を出版することについてとても意欲的で、構想がどんどん壮大なものになっていったようですね...。まだ自分の中でも固まっていなかったのでしょう。

一人で書くのではなく、共同執筆者ダンさん(恐らくユダヤ系白人)の視点を間に挟むことによって、人種差別問題やレーベルとの確執といったセンシティブなトピックをより客観的に、より説得力を持って訴えたかったのかもしれませんね。さながら狂言回しのような役割とでもいうか。そして、章を重ねるにつれて、二人の"ボイス(意見)" が混ざっていく...

ダンさんを信頼して、人種差別体験などを率直に話しているのに驚きました。回想録を書くのだから当たり前か...。
アンドレア・スウェンソンさんといい、あちらはアーティストとライターの距離が近いですね。もちろん信頼に足るライターだけでしょうが、ツアーに同行させたり、家に招いたり、電話で世間話ししたり(注:プリンスの場合)日本ではあまり考えられません。

それでも、アーティストとライターの間にはしっかり境界線があり、自分もプリンスのインタビュー記事を読みまくりブログなんぞ書いたりして、少しはプリンスの人となりに触れた気になっていますが、もちろん完全に理解できたとは思っていません。それは傲慢ですし、実際のところ本人のことは本人にしかわからない。他人はわずかな手がかりをつたって推測するのみです。

The Beautiful Ones = クリエイターの共同体... 先日観たドキュメンタリー映画ブルーノート・レコード  ジャズを超えて(Blue Note Records Beyond The Notes)でも”ミュージシャンの共同体(Community)”とコメントしているアーティストがいましたが、SNSで身近に感じられるようになった今でも、ミュージシャンは"聖域"、"アンタッチャブル(軽々しく触れてはいけない人達)"という気がします。やはり創造する人達というのは一般人とは全く違います。先月ルイス・コールのシークレット(?)ライブに行く機会があり、サンダーキャットが普通にいたので少し話しましたが、その思いを更に強くしました。リスペクトを忘れないようにしなくては。この時のことは別の機会に書きますね。

原書は読もうと思いますが、プリンス語で書かれているのできちんと読めるかどうか...。

それにしても、プリンスが指名した地元のライター、アンドレア・スウェンソンさんはやはり鋭かった!『1999』スーパーデラックス・エディションのライナーノーツを一部執筆したそうで、そちらも楽しみです。アーティストからの信頼も厚いようで、Lizo がミネアポリスに住んでいた時、結婚式に来て歌ってくれたそう。

 地元の音楽ライター、プリンスについて語る

最後に会った時、彼は新しい内なる旅を始めるのだと感じた。自身のアイデンティティーと回想に焦点を当てた内なる旅。ついに自分のストーリーを自分の言葉で伝える準備を始めたのだ。
彼は自分の人生の旅を分かち合い、自分の言葉で語りたいと思っていた。


(補足説明&関連記事)

・オプラ・ウィンフリー・ショー プリンス登場回(1996年) 映像
 https://www.youtube.com/watch?v=SQ3uoFc5eW4
 
  オプラ:   『パープルレイン』で最も自伝的要素のあるシーンは?
  
プリンス: 母親が泣いているのを見ているシーン
  
     父親のことも語っています。出会った中で最も美しい人物だと。

・プリンスの父、ジョン・ルイス・ネルソンは"プリンス・ロジャース" トリオを率い、プリンスがニックネームになった。
 かつてプリンス本人が語ったところによると、自分のワイルドな面は母、マティ・デラ・ショー・ベイカー似との事。

・チャンハッセンにあるチェーンホテル、カントリー・イン&スイーツ

ガーディアン紙のインタビューで語った"超越"
 日本語版 https://courrier.jp/news/archives/59079/?ate_cookie=1570975318
(一部引用)
昨夜皆が帰った後、彼はここに(注:NGP Music Clubのステージ)一人で座り、3時間通してピアノを演奏し歌った、と言った。「ただ止めることができなかったんだ。」彼はいわゆる "ゾーンに入った状態... 離脱体験をしていた” に違いない ー オーディエンスの前に座り、自分自身を見ているように。「超越(Transcendence)、これが必要なんだ。これが起こると...」彼は頭を振った。「ああ」
 
 ブログの過去記事でもとりあげていました。
 自分にチャレンジする  
  欧州プレス向けインタビュー @NPG Music Club   演奏しながら質疑応答


・調和について
 ハーヴィー・ハンコックもジャズについて"調和(harmony)"という言葉を使っていました。
 ハーヴィー・ハンコック、プリンスを語る

「ジャズの倫理哲学は、人間であることと調和しているということだ。ジャズでは、俺達一人ひとりが何を演奏しているかをジャッジしない。我々はすべてが機能するように努める。人が何を演奏しても、それを音楽の一部にしようとする。ジャッジせず、公平なんだ。 アイデアを共有し、互いに競争はしない。それは本当に健康的で、与える行為であると同時に非常に実りがあるものなんだ。」


・I.C.M. Partner社 エスター・ニューバーグ女史のインタビュー記事
Strictly Business: ICM Partners' Esther Newberg on Dealmaking in Publishing and Prince's Upcoming Memoir」 〜 Variety  April 10, 2018
 
 プリンスに回想録執筆を説得するために、ペイズリーパークに3人の編集者を送り込み、プリンスはライター、ダン・ピーペンブリング氏と共同執筆する形で契約を結んだ。亡くなる前に50ページの執筆原稿を送り届けたとの事。

 プリンスが執筆中だった自叙伝、出版か

・こちらは編集者に指名されたクリス・ジャクソン氏の寄稿記事
 「'The Beautiful Ones' Editor Opens Up About Working on Prince's Memoir
   〜 The Oprah Magazine.com  Occ. 9, 2019
  12歳の頃から熱烈なプリンスファンだったそう。

【追加】
ダン・ピーペンブリング氏の他紙インタビュー記事
Like Prince, his new mrmoir 'The Beautiful Ones' can't be pigeonholed」〜 Star Tribune Oct. 25, 2019

 ・プリンスが回想録を書く目的の一つは、パープルレインで暴力的に描かれていた父のイメージを正すことだった。
プリンスが父親の家に移り住むことになった日は、人生で最も幸せな日だった。母親の再婚相手と折り合いが悪かったから。

 ・The Beautiful Ones = my mother's eyes という意味でもあるそう

Comic strips, goofy snaps and mirror selfies: inside Prnce's private archive」〜 The Guardian Oct. 26, 2019
  
 ・プリンスは自分について書かれたものは、ほとんどが "ゴミ" だと思っていたそう。

 ・過去を振り返らず前進するタイプに思われがちだが、住居には意外にも過去のものが沢山保管されていた。結婚式のプログラム、ギフト、マイボール🎳
(マイテの分まで😥)、写真、手書きのイラストなど。イラスト可愛い💕

  NPR(国立公共ラジオ)の名物トーク番組「Fresh Air」に出演 
  本人の口からプリンスとの出会いやコラボレーションについて語っています。New Yorker誌の記事に補足している部分もあり。
  Prince's Co-Writer Reflects On Posthumous Memoir 〜 Oct. 28 2019

 「When Doves Cry」の歌詞に触れています

 
How can u just leave me standing?
 Alone in a world that's so cold (So cold)
 Maybe I'm just 2 demanding
 Maybe I'm just like my father 2 bold
 Maybe you're just like my mother
 She's never satisfied (She's never satisfied)
 Why do we scream at each other
 This is what it sounds like when doves cry


 どうして僕を置き去りにできるんだい?
 こんなに冷たい世界に一人ぼっちで
 多分僕が求めすぎているんだね
 父さんみたいに強引すぎるんだね
 あるいは、君が母さんみたいなのかもしれない
 決して満足しない女(ひと)さ
 なぜ僕たちはこんなに叫び合ってるの?
 鳩が泣くときみたいな声で


  プリンスの母親は自由な精神の持ち主で、父親は規律正しい人物だったと。


『Waking Life』... 2001年に公開された『恋人までの距離(Before Sunrise)』で有名なリチャード・リンクレイター監督作品。実写映像をデジタルペインティングで加工する手法で、人間の存在を問いかけた異色作。超現実的な視覚ドラッグ効果があり、リピーターが続出した
(ネット情報より)予告編

・「音楽は癒しだ(Music is healing.)」と彼は言った。「音楽には物事をまとめる力がある(Music holds things together.)。」

 Art Official Age
  内ジャケットにあるメッセージ
 
  there used 2 be a time when music was a spiritual healing 4 the body, soul, & mind . . .
(かつて音楽が身体、魂、心にとってスピリチャルな癒しである時代があった . . .)
   → アルバム収録曲『The Gold Standard』の歌詞にも入っている

・アラバマ州 ... 奴隷貿易と綿花栽培の地。古くから人種分離を支持。1955年に州都モンゴメリーで起きたローザ・パークス逮捕事件が公民権運動の口火を切り、セルマの行進(セルマからモンゴメリーへ)などが起きた。

Black Like Me... 1961年出版。”白人”ジャーナリスト、ジョン・ハワード・グリフィンが黒人の多く住むアメリカ南部を旅した時の様子を綴るノンフィクション

・黒人の所有権
     盟友スパイク・リーにも所有権について語っています。
   She's Gotta Have It ー プリンスとスパイク・リーの絆

「所有権こそ、君の子供達に与えるべきものだ。」
プリンスはリーに言った。「それこそが君の功績だよ。」所有権を持つことにより自由を擁護することは、彼らに共通した行動主義の鍵になる部分だった。

ちなみに、スパイクの
制作会社「40 Acres and a Mule40エーカーとラバ1頭奴隷の再建期から命名

音楽販売権守り抜いたプリンス」〜 SankeiBiz 2016年5月2日
(一部抜粋)
 2014年にはワーナーに残されていた楽曲のマスター音源権がプリンスに戻されることになり、プリンスはワーナーと再契約を締結。関係者によれば、楽曲の著作権は全てプリンス名義となった。

アルバム... って覚えてる?(Albums still matter発言)

 "Albums...Remember those?
  Albums still matter.  Like books and black lives, albums still matter.  Tonight and always."
(アルバム...って覚えてる?アルバムは今でも重要だ。本や黒人の命と同じように、アルバムは今でも重要なんだ。今夜も、そしていつだって...)

   * "Black lives matter"「黒人の命だって重要」というスローガン)に掛けています。

  カニエの乱入にウケている

・クラーク夫妻によるドールテスト「White doll, Black doll」
 Youtube に動画がアップされています

 ジェームス・ブラウンのドキュメンタリー映画のトークショーでだったか、ピーター・バラカンさんが「昔、黒人は"二級市民"と見られていた。それは今でも続いている。色が黒いほど差別される傾向がある。」と語っていたのを思い出しました。プリンスは色も白いし、一見して黒人とわからないから(ラテン系のように見える)、人気が出たのもあると思います。それでも差別にあっていたのですね。

The Rainbow Children のアルバムカバー
  画家C'babi Bayoc(現在はCbabi Bayoc)による「Reine Keis Quintet」。原画がペイズリーパーク、確かサウンドステージに入る前の部屋の壁にかかっており、思ったより大きかったです。

・プリンスが履いていたかかとが光るスニーカー。至る所で目撃情報が
  ミネアポリス旅行記 :5日目

 プリンスが常連だった地元レコードショップ「エレクトリック・フェイタス」で店員のお姉さんと交わした会話

 私「プリンス、このお店に年に数回来てたんだよね?」
 お姉さん「そうそう。最近だと11月、2月、4月に来たわね。2月に来た時なんて、ブリザード(大吹雪)の日で、お店にプリンス一人だったのよ。私お店にいたから覚えてるもの。かかとがキラキラ光るスニーカーを履いてきてたわ(笑)。」


・チャンハッセン・シネマ
  ミネアポリス旅行記:2日目
  プリンスはいつも後部座席に座っていたようです
(後ろから皆の様子を見るの好きだもんね)

プリンス、亡くなったヴァニティをコンサート中に追悼」 〜 bmr Japan 2016年2月17日

・プリンス語 ... プリンスが使う略語。歌詞にも用いた。
 「I」「Eye」「you」「U」「are」「R」... 読みにくいったらありゃしない!

『ウッドストック 〜 愛と音楽と平和の3日間 〜』
 この映画がプリンスの音楽人生の転換点になったとは!人生は至る所に伏線が張り巡らせれているのですね。
 というのも、ペイズリーパークの編集室で映像ラックをチェックしていた時、ぽつんとVHS 2巻が置いてあり、手にとってじぃっと見たのです。まさかそんなに大事な作品だったとは。確かに色褪せてました
(劣化)... 何度も観たんだろうな。
 
    BIRD
     編集室には『バード』と『メトロポリス』のポスターも額に入れて飾られていました。

    「June」の歌詞

  君はどこかへ出かけて自由を満喫してる
  僕が一人お腹を空かせて寒さに凍えてる間
  僕達の体は互いにしっくり馴染んでた
  今やリッチー・ヘブンスが歌うサウンドに馴染んでる
  グルグル回るレコードから聴こえてくるサウンドに

  時々思うんだ 生まれるのが遅すぎたと
  ウッドストックのステージで生まれるべきだったのに
  でも今ここにいる 待ちながら、待ちながら、待ちながら

「Purple Music」... 11月29日に発売される『1999』スーパーデラックス・エディションに収録される模様。amass のトラックリスト

・ルイジアナ州コットンバレー... ウェブスター郡 Wikipedia 

・ブラック・ウォール・ストリートとタルサ暴動
  ブログで説明してくださっている方がいます

水源(The Fountainhead)』アイン・ランド著  Wikipedia

プリンスのパスポート写真考
  新旧を比べると面白いです🎵

・回想録のニュース
 プリンスが回顧録を執筆 2017年秋に刊行」〜 クランクイン 2016年3月26日
 
プリンスが初の自伝『The Beautiful Ones』を2017年秋に出版」〜 amass 2016年3月20日
 
    プレスリリース in NY の様子
  ガーディアン紙
 
     "You all still read books right?" (君達まだ本は読むだろう?)
   聴衆は大喝采

・ファンクについて
 GQ誌 友人達が語るプリンス
Prince's Closest Friends Share Their Best Prince Stories〜 GQ.com   December 8, 2016

「最初にバンドを始めたとき、自分がまだ"ファンキー”かどうかを競い合うことによって、バラバラになったグループをまとめようと一度試みた。明らかにその問いはまだ続いているけどね。」ー プリンス、2001年。Webチャットルームで初期の頃の経験について語る

こんな発言もありました。
「ちょっと自分のことについて話したいんだけど。僕はミネアポリスで生まれた。父親はピアノの弾き方を教えてくれたよ…。少し大きくなると、僕は自分のやり方で物事をやり始めた。」ー プリンス 2016年4月14日、亡くなる1週間前、アトランタのステージで

マイケル・ジャクソン『BAD』
 前述GQ誌の記事より

「その曲の最初の歌詞は ”Your butt is mine.”(お前のケツは俺のもの =お前の尻尾はつかんでるぜ)って言うんだ。 言いたいのは、誰が誰に向かって歌ってるわけ?だって、君が僕に向かって歌ってるんじゃないよね(注:おそらく皮肉で言っている)。僕が君に向って歌ってるわけでもない。だから、その部分に問題があったんだ。」
― 1997年、プリンス。マイケル・ジャクソンのアルバム『Bad』のタイトル曲を、デュエットするのを断った理由について

Jill Jones(1982-91年 プリンスのバックボーカリスト) プリンスは「Bad」の一連の件について話してくれたわ。ジミ・ヘンドリックスの曲を聴きながらドライブしてたんだけど、道路の脇に車を止めて、湖を見ながら話しはじめた。「マイケルがこの曲を一緒にやろうと連絡してきたんだ。」

Bobby Z(ザ・レヴォリューションのドラマー。最初はプリンスの運転手兼助手として雇われた。2人は現地のデモ・スタジオで出会った)  マイケルが何を考えていたのかわからないけど、プリンスの獰猛さを把握してなかったみたいだね。プリンスが参加するつもがないのはわかっていたさ。プリンスにこんな曲を持ちかけちゃだめだよ。この曲でどっちが悪いか。プリンスかマイケルか?プリンスに決まってるだろう。マイケルじゃない。プリンスはマイケルのことが大好きだったんだよ("He loved Michael Jackson.")。マイケルは、プリンスが競い合えるレベルにいたからね。マイケルは激烈な競争相手だったんだ。プリンスは、2人が相棒のように見える振る舞いをするつもりはなかった。プリンスは(マイケルに)勝つつもりだったんだよ。そして、映画で勝った。『パープル・レ イン』で勝ったんだ。

 クインシー・ジョーンズ、ついにプリンスを語る
 クインシー・ジョーンズのインタビュー映像
 「Quincy Jones Breaks Down Prince & Michael Jackson's Beef」
 プリンスに対して辛口です。やはりマイケルが可愛いのでしょうね。マイケル=カミール(プリンスのアルターエゴ)と言っています。

 スザンナ・メルヴォワンのコメント
 → マイケルが『Bad』をリリースする前に、プリンスにトラックを送ってきた。プリンスに一緒に歌って欲しかったから。が、プリンスは腹を立てた。自分に"I'm Bad"と歌わせる神経が信じられないと。そして『Bad』をこうあるべきという風に変えて、録音し直し、マイケルに送り返した。それでジ・エンドだそうです。

・プライベートジェット 緊急着陸して病院に搬送された時の様子
 ジュディス・ヒルのインタビュー記事
 『I Was on That Fateful Flight With Prince: A Protégée(妹分)Tells Her Story』 〜 The New York Times June 21, 2016

・細胞記憶(Cellular memory)Wikipedia